「心の中の剣を鍛える」——一言で言えば、これは活人剣のことです。
実際の剣は人を斬ります。どれほど技が優れていても、刃物である以上、その本質は変わりません。ですが「心の中の剣」は、相手を物理的に傷つけることがありません。それでいながら、使い方によっては実際の剣よりもはるかに深く、相手の心に届きます。
言葉の応酬で例えるなら、相手を一刀両断に論破することもできますし、あえて躱しながら様子を見ることもできます。正面から斬り込まず、別の角度から静かに示し諭すこともできる。剣の技と同じように、心の剣にも、間合いがあり、理合いがあります。
日本刀は、本来ならば人を斬るために作られた武器です。その事実は変わりません。ですが現在、日本刀は美術工芸品として世界中で高く評価されています。その形、刃の光り輝き、全体に漂う調和のとれた美しさ——世界中の誰が見ても、思わず息をのむ芸術作品です。
美しいものは人を惹きつけます。そこに強さが宿っていれば、なお一層の魅力を放ちます。
「心の中の剣を鍛える」とは、こうした人間的な魅力を高めていくことの言い換えでもあります。武術の稽古を通じて身体と技術を磨くことは、そのための大切な過程です。ですが、どれほど物理的な強さを身に付けても、心の剣を鍛えていなければ、その強さは単なる暴力に成り下がってしまいます。
本当の強さとは、持っている力をあえて使わないことができる、ということではないかと思っています。
私が稽古生に伝えていることがあります。
圧倒的な強さを身に付けなさい、と。次元を超えた、到底かなわないと思わせるだけの見事な技を持ちなさい、と。
大人が本気で小学一年生と争わないのと同じように、圧倒的な力の差があれば、本気で戦う必要がなくなります。戦わずして、相手が戦意を失う。それが理想の護身武術のかたちだと考えています。
私が目指しているのは、さらにその先です。喧嘩を売りに来た相手が、こちらの技の見事さに思わず笑ってしまうほどの領域です。怒りや恐れではなく、その技術の圧倒的な美しさに、相手自身が気づいてしまう。そこまでの境地に至ることは至難の業でしょう。ですがそれを目指して、日々稽古を続けています。
自分をそこまでの強さへと引き上げようとする集中力。それ自体が、人間を磨く力になります。
「武術とは、人を殺めるためにあるのではない。人を活かすためにある」
単純に強さだけを追い求めても、究極まで突き詰めていけば、おのずとこの考えに辿り着くのではないでしょうか。
そしてそれこそが、塚原卜伝先生の「活人剣」が指し示すものの、ほんの一端ではないかと私は思っています。強さを突き詰めた先に、人としての在り方が見えてくる。武術の稽古は、その静かな探求の積み重ねです。
