私が最も尊敬する歴史上の武術家、二人の剣術家についてお話しする第2回目です。
前回は塚原卜伝先生についてご紹介しました。今回は、幕末の剣士・斎藤一について書いていきます。
斎藤一、新選組最強の剣士
沖田総司、永倉新八と並び、新選組最強の剣士の一人であったといわれています。沖田総司、永倉新八らとともに新選組の撃剣師範を務め、新選組の中で最も人を斬ったとも伝えられています。大坂力士との乱闘、組内部における粛清、天満屋事件、戊辰戦争——数々の修羅場を剣一本で生き抜いた、まさに歴戦の剣士です。
永倉新八は弟子にこう語ったといいます。「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と。
沖田の剣が「猛者」と評されるのに対し、斎藤の剣が「無敵」と称されるのは、単に強いというより、崩れない剣だったからではないでしょうか。どんな状況でも揺るがない、その安定感こそが斎藤一の真骨頂だったと思っています。
そして、斎藤一が後年残したこんな言葉があります。
「どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです」
この言葉を初めて読んだとき、思わず息を吞みました。私自身、指導の中で常々こう伝えているからです。「相手がこう来たからこうやって避けて…、などということはまず無理です」と。
実戦とはそういうものだと、長年の稽古から感じてきたことを、斎藤一も同じ言葉で語っていた。時代を超えて同じ結論に辿り着いていたことに、武術の本質のようなものを感じます。そして正直なところ、あの斎藤一と同じ意見だったと知り、とても嬉しい気持ちがあります。
維新後は警察官となり、さらに学校で剣術を教えた斎藤一。激動の時代を生き抜き、最後まで剣と共にあった生き方に、深く惹かれます。
二人の剣術家に共通しているのは、剣に対して最後まで真摯に生き続けたということです。時代も立場も異なりますが、その姿勢は変わらない。そして二人とも、圧倒的な実戦経験の中から、技術を超えた何かに辿り着いています。
卜伝先生の「心を新しくして事に當たれ」という言葉も、斎藤一の「夢中になって斬り合うのです」という言葉も、根っこは同じところにあるのかもしれません。頭で考えることの限界を知り、それでも稽古を積み続けた者だけが語れる言葉です。
私自身、その境地には遠く及びません。ただ、この二人を心の師として仰ぎながら、稽古を続けていきたいと思っています。
なお、私は雙武會において「影流刀道」を指導しています。刀を用いた実用的な剣術です。武術を始めた当初、最初に習ったのは野太刀自顕流剣術でした。そうした縁もあり、この二人の剣術家への敬意は、単なる歴史への関心ではなく、自分自身の稽古と地続きのところにあります。
