知から智へ、「生きるための総合智」

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実はつい最近まで、何を目的として武術を教えて行こうか思案していました。

鋭貫道の二代目を継承してから、これについては随分と悩みました。
以前は、相手を制する技術を身に付ける事を重要視していました。
師匠の経験を基にし、有用性を確認できたものばかりですので、実用として大変優れていると実感していました。これを広めていく事は、師匠から託された「犯罪被害者を減らす」という思いに十分応えられると、率直に思っていました。

ですが、犯罪被害を減らすからと言って、ただ強くなることを教えていくのも少しずれていると感じ始めました。暴力に対して暴力で返す――相手より強いければ犯罪被害を減らせるという発想は、あまりにも短絡的です。相手よりも強くなるとは、どこまで強ければよいのか。これは終わりのない問いです。しかもやられてしまえばそこで終わりです。
それなら「コントロールされた暴力なら暴力ではない。それが武だ!」などと理屈をこねたとしても、自分の中ではもっとモヤモヤするばかりです。

そこで次に、「護身」を目的として「全ての日本人に護身を」というテーマで考えてみました。相手からの暴力に対してのみ使う武術、こちらから先に手を出さない——ですがそんな、通常の護身術教室でもやっているようなことを教えても、鋭貫道の魅力の半分も引き出せないでしょう。これもやはり、私の考えとずれていました。

護身術だけをやっていて、本当に護身ができる人はほとんどいないのではないでしょうか。護身ができる人は、相手を攻撃する能力も優れていると私は思っています。武術と護身術の違いは、自分から攻撃するか、防御から始まるかの違いです。相手の攻撃を防御できるということは、自分もその攻撃ができる、もしくは理解できるから防御できるわけで、つまり攻撃能力も高いわけです。本当の意味で護身を実現するには、結局、武術的に実用のレベルでなければ無理だと私は確信を持って断言します。

そのように考える私にとっては、単なる護身術という言葉だけでは、教えたい内容のすべてを定義できません。武術を通して身体を鍛錬し、整えていくことによって得られる、深い意味での身体操作の感覚、身体内部の充実感、そして心の在り方や哲学的な領域まで含めて、何かもっと良い言葉がないものかとモヤモヤしていました。

古来、武術は「戦うための技術」として生まれました。しかしそれは同時に、どう生き残るか、どう仲間を護るか、どう危険を察知するか——そういった「生きるための知恵」の集積でもありました。
身体を鍛えることで自己を知り、呼吸を整えることで心を落ち着け、相手との間合いを読むことで人間関係を学ぶ。技の稽古を通じて、精神の在り方が磨かれていく。
武術とはもともと、そういう「総合的な知恵」だったのではないかと思うに至りました。

身体を鍛え整えることはもちろん、精神集中、マインドフルネス、自然や見えないものへの敬意——これらすべてを含めた「生きるための総合的な知恵」としての武術を伝えていきたい。
そして、「知恵」という字を「智慧」に改め、「生きるための総合智」という言葉に辿り着いたとき、ようやく自分の中でしっくりきました。雙武會としての方向性も、これでようやく定まりました。

尊敬する武術家の一人、塚原卜伝先生いついては以前、記事として書きました。
私が最も尊敬する二人の剣術家

私では到底及びませんが、卜伝先生がたどり着いた「活人剣」とは、こういったことをだったのかなと、ふと思います。