「極める」と「究める」は、似ているようで少し意味が違います。
技を高い水準まで磨き上げることは「極める」。一方で、その本質がどこにあるのかを深く探り続けることは「究める」と表現できます。
そう考えると、私が目指しているものは、単に技を極めることだけではなく、武術そのものを究めることなのだと思っています。
もちろん、私自身は技を極めたと言えるほどの境地には達していません。今でも他流派の動きを見るたびに、自分の技は本当に通用するのだろうかと考えます。長く稽古を続けてきても、気持ちのどこかでは、いつまでも素人のような感覚があります。
それでも稽古を続けているのは、強くなりたいからだけではありません。
人間にとって、武術の本当の価値はどこにあるのか。それを身体を通して知りたいという思いがあるからです。
武術は何のためにあるのか
現代武術には、競技としての面白さがあります。他人と技を競い、勝敗を楽しむことも、一つの娯楽として価値のあるものだと思います。
また、実戦に役立つ技術や考え方を身に付けることは、護身という意味でも大切です。危険な状況に遭遇した時、身体を守る方法を知っていることは、何も知らないよりも役に立つでしょう。
しかし、それだけが武術の価値なのでしょうか。
競技も実戦も、見方を変えれば、ある程度管理された危険を楽しむ行為なのかもしれません。登山や速度を伴う遊びと同じように、人は危険の近くへ身を置くことで、感覚が研ぎ澄まされ、生きている実感を得ることがあります。
武術もまた、身体へ没頭し、技へ没頭し、相手とのぶつかり合いを楽しむ、人間のための一つの道具なのかもしれません。
対人稽古では、言葉を使わずに相手と対話します。押せば返され、力めば相手に伝わり、迷いがあれば動きに表れます。相手の身体を通して自分を知り、自分の反応を通して相手を知る。武術とは、身体によるコミュニケーションでもあるのだと思います。
水面は、波立ちながら静けさへ戻る
静かな水面へ石を投げ込めば、大きく波が立ちます。何事もなかったように、まったく反応しないわけではありません。
しかし、しばらくすると波は少しずつ小さくなり、やがて元の静かな水面へ戻っていきます。
これが自然なのだと思います。
石を投げ込まれても波立たないことが、静けさなのではありません。刺激を受ければ、それなりの反応は起こります。それでも、その反応に支配され続けることなく、再び元の状態へ戻っていく。
人の身体や心も同じではないでしょうか。
恐怖を感じないことが強さではありません。
怒らないことが平穏でもありません。
迷わないことが中心にいることでもありません。
恐怖を感じ、怒り、迷い、揺れながらも、そのまま飲み込まれず、また自分へ戻ってくる。
それが自然であり、本当の意味での強さなのだと思います。
揺れても戻れる身体と心
武術の稽古では、相手から力を加えられます。押され、引かれ、崩され、技を掛けられます。
それに対して、ただ力で耐えるのではなく、身体のつながりを失わず、崩れても立て直し、相手の力に支配されない身体をつくっていきます。
完全に揺れなくなるのではありません。
揺れても、また戻れるようになるのです。
その戻る場所を、正中心と呼ぶのか、肚と呼ぶのか、軸と呼ぶのかは分かりません。ただ、姿勢、重心、呼吸、意識がばらばらにならず、一つにまとまった時に感じられる中心のようなものがあります。
その中心は、身体の中に固定された一点ではなく、動きの中で現れる基準なのかもしれません。
立っている時。
歩いている時。
相手に押された時。
技を掛けられた時。
恐怖や焦りを感じた時。
その都度、崩れながらも戻ってくる場所です。
この稽古は、そのまま心にもつながっているのだと思います。
外から何かを言われた時。
予想していなかったことが起きた時。
怒りや不安に襲われた時。
その瞬間、心も波立ちます。
しかし、身体の稽古を通して、揺れても中心へ戻ることを覚えていけば、心もまた少しずつ戻れるようになるのではないでしょうか。
心の平穏とは、何も感じなくなることではありません。常に静かで、何事にも動じない人間になることでもありません。
揺れても、また自分に戻れること。
その戻る場所を、身体で知っていること。
武術を究めるとは、技の数を増やすことでも、相手に勝ち続けることでもなく、自らの中心を知り、揺らいでもそこへ戻れる身体と心をつくることなのかもしれません。
そして、その先にあるものが、以前から私が探していたものなのだと思います。
強さの先にある静けさ。
武術とは、相手に勝つためだけのものではありません。
身体を通して自分を知り、外からの力に揺さぶられながらも、また自分へ戻ってくる。その繰り返しの中で、私たちは少しずつ、強さとは何か、平穏とは何かを知っていくのではないでしょうか。
