先日、夜中に師匠と電話で話す機会がありました。話題の一つが、武術における「型」でした。
師匠の考えは、以前から一貫しています。
「型は必要ない」
型を教えると、人は型に縛られやすくなる。目の前の状況や自分の感覚よりも、「この場合はこう動くべきだ」という既成の答えを優先してしまう。その結果、本来なら身体から自然に出てくるはずの動きが制限されてしまうというのです。
この話自体は、以前から何度も聞いていました。しかし今回、あらためて師匠と話したことで、その意味がようやく自分の中に深く入ってきました。
型によって身につけたもの
私はこれまで、多くの型を覚え、繰り返し稽古してきました。
そのおかげで、さまざまな攻撃を予測し、ある程度であれば、どのような相手にも対応できるようになりました。相手の攻撃を捌き、こちらの攻撃につなげる。武器術や呼吸法、鍛錬法、身体の整え方についても学んできました。
これらは間違いなく、長年の稽古によって身につけたものです。型は私に、多くの技術と身体操作を与えてくれました。攻防の選択肢を増やし、相手の動きを理解するための材料も与えてくれました。
その意味で、型の稽古は決して無駄ではありません。むしろ、型を学んだからこそ、現在の私があります。
ところが、型を数多く知るようになったことで、別の問題も起きていました。
身体より先に「正解」が動き始める
相手が攻撃してきたとき、「この攻撃には、この捌き」「この距離なら、この技」「この方向へ動くのが正しい」というように、身体が動く前に頭が答えを選ぶようになっていたのです。
これは見方を変えれば、達人のようにも思えます。常に冷静に状況を分析し、適切な方法を選んで対応しているからです。私自身、このようになりたいと思っていた時期がありました。むしろ、この状態こそが達人なのだと思っていました。
しかし、実際に自分がその状態へ達したとき、見えてきたものがありました。
それは、自由に動かない身体でした。
技術や知識が少なかった頃は、考えて選ぶことができませんでした。そのため、未熟ではあっても、身体はその場の状況に応じて自由に反応していました。
現在は、昔よりはるかに多くのことを知っています。技術も洗練され、攻防も安定しています。しかし、選択肢が増えたことで、頭の中にいる「監督者」が、常に身体の動きを管理するようになっていました。
身体の感覚から動くのではなく、知っている型の中から正解を探し、その型に身体を合わせようとする。これが、師匠から以前より指摘されていた、私の動きの問題だったのです。
知識と技術を身につけたことで対応力は上がりました。しかし、それらを意識的に選ぼうとする働きが強くなりすぎて、身体の自発性が表に出にくくなっていました。
私は型によって力を得ました。ところが今度は、その型を手放せないために、得た力を自由に使えなくなっていたのです。
師匠が否定しているもの
師匠は「型は必要ない」と言います。
しかし今回の電話を通して、師匠が否定しているのは、型という情報そのものではないのだと気づきました。否定しているのは、型を先に正解として置き、そこへ自分の身体を合わせようとする学び方です。
型を絶対の答えだと思えば、自分の感覚よりも型を優先するようになります。型から外れた動きを誤りと考え、身体から自然に生まれた反応を、自分で押さえ込んでしまいます。
本来は、順序が逆なのです。
まず自分の感覚から動き、それを相手との稽古で試す。通用しなければ、身体がその結果を受け取って修正する。そうして動きが自然に洗練された後で、あらためて型を見る。
すると、「自分から自然に出てきたこの動きは、あの型と同じだったのか」と、後から型の意味が分かります。
師匠も、上達してから型を振り返ると、自分から出てきた動きと型の共通点に気づくことがあると話していました。
型を先に身体へ当てはめるのではありません。身体から生まれた動きを、後から型によって理解するのです。
型は設計図ではなく古い地図
型とは、決められたとおりに身体を動かすための設計図ではないのかもしれません。
先人が試行錯誤の末に発見した動きを保存した記録であり、自分が対人稽古の中で発見したものを、後から照らし合わせるための古い地図なのだと思います。
地図は、進む方向を知るために役立ちます。しかし地図ばかりを見ていたら、目の前にある段差や障害物、周囲の変化に気づけません。
型も同じです。参考にすることはできますが、型に目の前の現実を合わせようとしてはいけません。現実の相手は、型と同じ速さ、角度、間合いでは動いてくれないからです。
型を知っていることと、型に支配されることは違います。型を大切にすることと、型を絶対視することも違います。
型の本当の価値は、形を正確に再現することだけではなく、そこに保存された身体の原理を、自分自身の経験を通して理解することにあるのでしょう。
自分の感性だけでも不十分
ただし、「自分の感性から自由に動けば、すべて正しい」ということではありません。
自分の感覚だと思っているものの中には、身体の癖や思い込み、恐怖による反応も含まれています。そこで必要になるのが、対人稽古です。
自分の感覚から動き、その動きが相手との関係の中で本当に機能するのかを確かめる。うまくいかなければ、結果を受け入れて修正する。この繰り返しによって、独りよがりな動きと、実際に通用する自然な動きが選別されていきます。
自分の感性から動く。相手との関係の中で試す。結果を受けて身体が修正する。そして、その後で型や理論と照らし合わせる。
この循環が重要なのです。型にも支配されず、自分の思い込みにも支配されない。そのために、相手のいる稽古が必要になります。
型を捨てるのではなく、主従関係を変える
今回、私が気づいたのは、型をすべて捨てなければならないということではありません。
これまで身につけた知識や技術を、無理に忘れる必要もありません。忘れようとすれば、かえって型を強く意識することになります。
必要なのは、型との主従関係を変えることです。
これまでは型が先にあり、私はそこへ自分の身体を合わせようとしていました。これからは、自分の感覚と、目の前の相手との関係を先にする。型や技術は意識の前面から退かせ、必要であれば身体が自然に使うものとする。
動いている最中には型を探さない。動いた後で、「今の動きは、あの型に似ていた」と気づくくらいでよいのでしょう。
型から自分の動きを作るのではなく、自分の動きが先にあり、型は後からそれを照らす。
型を学ぶ意味と、型から自由になる意味が、今回の師匠との電話によって、ようやく一つにつながりました。
型があっても、型に動かされない身体へ
私は型を通して、多くのものを身につけてきました。だからこそ今、型を否定するのではなく、型に支配されない段階へ進む必要があるのだと思います。
目指すのは、技術を持たなかった昔の状態へ戻ることではありません。昔の自由さと、現在までに積み重ねてきた技術を統合することです。
知識や技術は身体の中にある。しかし、それを頭で選び続ける必要はない。目の前の状況に応じて、必要な動きが自然に現れる。
型を知っていても、型に縛られない。型が身体の中にあっても、型に動かされない。
師匠の言葉によって、型を本当の意味で生かす道が見えてきたように思います。

