前回、型稽古とは何かについて書きました。
ただし、型を通して創作者の意図や技術を読み取るためには、そもそもその型が大きく変わらずに伝わっていることが前提になります。最初の創作者(流祖や中興の祖など)が作った型がそのまま残っていれば、たとえ技の意味や使い方が一時的に分からなくなったとしても、後世の人がそこから本来の意図を復元できる可能性があります。
しかし、どこかの代で何らかの理由によって型そのものが変えられてしまった場合、その時点で創作者の意図とのずれが生じます。私は、そうなると本来の形や意味を完全に復元することは、非常に難しくなると考えています。
たとえ後世に優れた人物が現れ、型の本当の意図に近いものを見抜いたとしても、伝承されている型がそれとは異なっていれば、どちらが本来のものだったのかを確かめることはできません。その場合、気付いた本人の技としては成立しても、流派全体としては、それまで伝わってきた型がそのまま継承されていく可能性が高いでしょう。
こうした人物が正式な継承者でなければ、どれほど実力があっても、流派の型そのものを自由に変えることは出来ません。場合によっては異端的な存在として扱われ、最終的には流派を離れ、自ら新しい流派や分派を立ち上げることになるかもしれません。
一方、正式な継承者であれば、自らの一手として新しい型を加えたり、既存の型に新たな解釈を与えたりすることもできます。武術の歴史を見れば、このような流れから新しい派や系統が生まれてきた例は少なくないと思います。
しかし、鋭貫道では、こうした問題は基本的に起こりません。
なぜなら、そもそも鋭貫道は型を中心に成立している武術ではないからです。
無影拳に由来する二つの型はありますが、それらも絶対的な完成形として扱うものではありません。解釈や使い方は、原理から外れない範囲で、その人の身体によって変わって構わないという考え方です。
鋭貫道では、自分自身の身体をよく観察し、自分の動き、自分の技、自分なりの形をつくり上げていくことを重視します。人が違えば身体も違い、得意な動きも違うのですから、最終的に現れる技が異なるのは当然です。
ただし、何でも自由でよいというわけではありません。
そこには、鋭貫道としての哲学と原理があります。
その根本がずれていなければ、動きや技の形が違っていても、それはその人自身の鋭貫道と言えるでしょう。
基礎となる構え方や身体の使い方には共通する部分がありますので、鋭貫道をやっているかどうかは、見ればある程度分かります。しかし、その先に現れる技や動きまで全員が同じである必要はありません。
型を守ることで一つの技術体系を伝える武術がある一方で、鋭貫道は、原理と哲学を共有しながら、一人ひとりが自分自身の武術をつくっていく。
ここが、鋭貫道と多くの流派との大きな違いだと思っています。

