武術は、もう一度ひとつになっていくのかもしれない

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武術というものは、そもそも何のために生まれたのでしょうか。

もちろん、死にたくないからです。戦わなければならないのであれば、できるだけ生き残りたい。どうしても駄目なら、せめて相打ちに持ち込みたい。その勝率を少しでも上げるために、長い時間を掛けて技術が工夫され、さまざまな武術や流派へ細かく分かれていったのだと思います。

人間という生き物の身体構造そのものは、大きく違いません。そのため、殴る、蹴る、投げる、極めるといった動作を効率よく行う方法も、ある程度のところまでは共通しているはずです。

それでも数多くの流派が生まれたのは、その先にある細かな工夫が実際の戦いで有効だったからではないでしょうか。

身体の角度を少し変える。足の置き方を変える。打つ瞬間の重心移動を工夫する。一般の人が聞けば「そんなことか」と思うような小さな違いでも、それを何年、何十年と磨けば、とてつもなく大きな武器になります。

一つの工夫を磨き抜く

以前、纐纈卓真先生のYouTubeで、福地勇人選手や古コンさんの空手技術について取り上げている動画を見ました。

世界一まで到達した人たちですから、当然ながら基本的な技術水準は非常に高いのは言うまでもありません。しかし、私が興味を持ったのは、その上にある個人的な工夫でした。

一見すれば、本当にわずかな違いです。

しかし、そのわずかな違いを自分の身体に合わせ、徹底的に磨き続けることで、その人だけの非常に強力な武器になっていく。

これを見た時、武術というものの一つの本質が、そこにあるように感じました。

たくさんの技を知っていることも大切ですが、自分の身体で確実に使える一つの技を徹底的に錬磨する。それだけでも、実際には相当なところまで通用するのではないでしょうか。

鋭貫道は、そこから始める

通常は、まず流派の技を学び、その中から自分に合ったものを見つけ、長い年月を掛けて工夫しながら自分の技へ変えていきます。もしくは、徹底的に型を反復し、自分を型にはめ込むといった発想かもしれません。

私自身も、そのようにして武術を学んできました。さまざまな流派の技や型を覚え、それを研究し、自分の身体と擦り合わせてきました。

ところが、私の師匠は最初から違う方法を取っていました。

大まかな構え方、身体の使い方、動きの基本だけを学んだら、そこから先は自分の身体を観察し、自分で技をつくっていくのです。

誰かの完成された技を取り入れて、自分に合うように直していくのではありません。

最初から自分と会話する。

自分はどのように動くのか。どこまで動けるのか。何が得意で、どこに無理があるのか。力を入れた時にどうなり、力を抜いた時にどう変わるのか。

それを深く観察しながら、自分にとって最も使いやすい動きをつくっていきます。

師匠は、それが最短、最速で「自分の最強」を目指す方法だと考えていました。

他人の最強ではなく、自分の最強

これは、とても重要な違いだと思っています。

どれほど優れた先生の技であっても、その先生の身長、体重、骨格、筋力、反応、経験によって生まれた技です。それを学ぶことには大きな価値がありますが、その人にとっての最強が、そのまま自分にとっての最強になるとは限りません。

鋭貫道では、誰かと同じ動きになることを目指しません。

自分自身を深く観察し、自分が持っているものをできる限り引き出していく。

他人の最強へ近づくのではなく、自分自身の最強をつくるという考え方です。

その意味では、私がこれまで歩いてきた道とは逆方向から武術へ入っているように感じます。

私は多くの技を学び、それを少しずつ自分の中で整理し、削りながら自分の武術へ近づいてきました。師匠は最初から自分を出発点として、必要なものだけを組み上げていきました。

行き着く場所は似ていても、道順が違うのです。

細分化された武術が、再びつながる

私は最近、この鋭貫道の方法に、どこか「武術の統合」のようなものを感じています。

武術は長い歴史の中で研究され、さまざまな工夫が加えられ、数多くの流派へ細分化してきました。それぞれが独自の技術や身体操作を磨き、一つの大きな武術というものが、枝分かれするように広がっていったとも考えられます。

しかし、その先では逆のことが起こるのかもしれません。

流派という枠から技を集めるのではなく、それぞれの原理を理解し、自分の身体の中で必要なものだけをつなぎ直していく。そうすれば最後には、空手だから、柔術だから、中国武術だからという区別よりも、「自分の身体ならどう動くか」というところへ戻っていきます。

細かく分かれていったものが、今度は一人の人間の身体の中で、再び一つになっていく。

私は、そこにこれからの武術の一つの姿があるような気がしています。

誰かの技を完成形として追い続けるのではなく、自分自身を研究し、自分の身体から技を生み出していく。

武術が最後に帰ってくる場所は、流派ではなく、やはり自分自身なのかもしれません。