過去動画シリーズとして、これまでも古い稽古動画をいくつか紹介してきました。
今回の動画は、約7年前に撮影したものです。古流柔術の型を一つ行っているとても短い動画です。
肩を組んで歩いているところから投げる
この型は、相手と肩を組んで歩いているところから、突然投げるというものです。
なぜ、そのような状況になったのでしょうか。
一緒に酒を呑んだ帰り道に、隙を見て相手を始末する手筈だったのでしょうか。それともカツアゲに遭っているのでしょうか。
ありそうな気もしますし、なさそうな気もします。
このような独特な状況を想定した技が、型として残されているところも、古流武術の面白さの一つだと思います。
型を稽古していると、その技が使われた場面や、当時の人間関係まで、つい物語のように想像してしまいます。
稽古では安全に投げる
動画では、相手を投げ飛ばすように稽古しています。
しかし、この技を本来の目的どおりに行えば、相手を安全に背中から落とすものではなく、頭部から落下させる、非常に危険な技になります。
したがって、実際の稽古では本来の掛け方をそのまま再現しません。
投げる側は、歩いている相手のタイミングを測りながら、安全に回転できるように動きます。投げられる側も技が来ることを理解しているため、自分から身体を回し、受け身を取りやすい形へ動いています。
相手の足元へきれいに入り、背中を一つのガイドとして使いながら、相手に転がってもらうように投げます。
これは、技の仕組みを残しながら、安全に稽古するための方法です。
本来の使い方を考えると、相手の襟元を掴み、その足元へ小さくしゃがみ込むように身体を入れるのだと思います。
こちらが十分に低くなれば、こちらの落下と相手の重さによって落ちてきます。投げるというよりも、相手が落下するのを邪魔しない、といった感覚に近いのかもしれません。
この動きを予告なく行えば、相手は反応できず、顔面や頭部から落ちる危険があります。とっさに手をつけば、手首や腕を負傷する可能性もあります。
実際に試すものではありません。
型の中にどのような危険性が含まれているのかを理解し、安全な形へ置き換えて稽古する必要があります。
技を知ることが防御にもなる
こうした技を学ぶ意味は、相手へ掛けられるようになることだけではありません。
技の仕組みを知っていれば、自分が同じような状態になった時に、何が起こる可能性があるのかを察知できます。
肩を組まれた時の相手の足の位置、襟元を掴む手の動き、急に身体を低くする気配などから、危険を感じ取れるかもしれません。
技を知ることは、技を使うためだけではなく、技を受けないためにも役立ちます。
護身という意味では、こちらの方が重要な場合もあります。
型には多くのものが含まれている
実際に技を使う場面を想定して稽古することは、武術の実用性を考えるうえで大切です。
しかし、型を稽古する意味は、それだけではありません。
型には、身体の使い方、相手との間合い、技を掛けるタイミング、足の運び、重心の移動、身体の鍛錬など、さまざまなものが含まれています。
一つの型を繰り返す中で、最初は気づかなかった身体操作が見えてくることがあります。
なぜ、この足をここへ置くのか。
なぜ、この方向へ身体を向けるのか。
形だけを覚えた段階では分からなかったことが、稽古を続けることで少しずつ理解できるようになります。
現代まで残されている型には、長い時間の中で選ばれ、磨かれてきたものが多いはずです。
その型が何を意味しているのかを丁寧に研究し、考察していけば、そこから多くの知恵を得ることができます。
私もそのように考え、今も型の稽古を続けています。
型が少ないからこそ、深く研究できる
鋭貫道には、型が二つしかありません。
型が少ないということは、覚える内容が少ないというだけではありません。一つひとつの動きを、より深く研究できるということでもあります。
本当の戦いでは、長い技の応酬が続くとは限りません。ほんの一瞬の判断や動作によって、結果が決まるものだと思っています。
実戦性の高い技は、複雑な手順を必要とせず、むしろ単純な形をしていることが多いと思います。
単純だから簡単なのではありません。
単純であるからこそ、ごまかしが利かず、その一挙動を長い時間をかけて探求する必要があります。
多くの技を知ることより、一つの技を磨くこと
「多くの技を知ることより、一つの技にどれだけ習熟するかが大切である」
このような考えは、古今東西の多くの武術家によって語られてきたものだと思います。
その象徴として思い浮かぶのが、塚原卜伝先生の鹿島新當流に伝えられた「一之太刀(ひとつのたち)」です。
鹿島新當流そのものは現在も伝承されていますが、卜伝先生が唯授一人の極意として伝えた一之太刀については、その具体的な技術内容が分かる資料は残されていません。一つの決まった技だったのか、時機や間合い、心法までを含む原理だったのかも、現在では明らかではありません。
私は、一之太刀とは単なる特別な必殺技ではなく、一つの動きをどこまでも深く磨き、技と身体と心を一つにする、稽古の本質を示したものではないかと考えています。
もちろん、これは私の解釈です。しかし、多くの技を知ることよりも、一つの技を、どのような状況でも自然に使えるところまで習熟する。そのような教えが、一之太刀という言葉の中に込められていたのではないかと思います。
多くの技を集めることよりも、一つの動きを徹底して磨く。
何度も繰り返し、その技の形、間合い、呼吸、身体操作を深く掘り下げる。
そして、どのような状況でも自然に使えるところまで、自分の身体へ染み込ませる。
それこそが、本当に使える実戦の技なのではないでしょうか。
もちろん、これは私の勝手な解釈です。
しかし、どのような技であっても、自分が納得できる動きをとことん追求した者だけが、本当の技へたどり着くのだと思います。
……ということは、さまざまな武術を学び、たくさんの技を知っているだけの私は、まだまだ全然ダメということでしょうか…(笑)。
いろいろ学んだ末に、「結局、一つを深く稽古しなさい」というところへ戻ってきたのかもしれません。
お後がよろしいようで。

