第二回 文化圏によって異なる「武術と神の関係」
武術の起源に神や超越的な存在を結びつける語りは、日本に限った特別なことなのでしょうか。日本と西洋、中国の三つの文化圏で比較してみました。
日本——神が直接降りてくる
日本には八百万の神という概念があります。神は遠い存在ではなく、山にも滝にも剣にも宿り、修行者のもとに直接現れることのできる存在です。鹿島の神に技を授かった、夢の中に現れた人物が流派の奥義を示した、といった語りが、荒唐無稽ではなくリアリティを持って受け入れられています。また皇祖神崇拝や日本各地の神社を見ると、かつて偉大な人物であったから神として祀られている場合がほとんどです。つまり、神と人間の境界が本来曖昧であり、修行によって神がかりの境地に至ることが文化的に想定されています。だからこそ「神から直接教わった流派」という語りが生まれやすく、また広く受け入れられてきたのだと思います。
ヨーロッパ——神は審判者であって師ではない
ヨーロッパ武術における「神・精神性との関係」を見てみましょう。古代ギリシャでは現代の総合格闘技に近いパンクラチオンという競技がありました。これはヘラクレスなどギリシャ神話で語られる神が出てきますが、結論から言えば、日本の武術のような「神からの天啓・直接の系譜」という形は、私が探した中では見られませんでした。
中世ヨーロッパの時代になると騎士道が生まれてきます。ここでも武術が日本と決定的に異なるのは、「個人の天啓」ではなく「キリスト教という制度」が武術全体を包んでいた点です。
騎士は叙任式でキリスト教の誓いを立て、剣はしばしば聖人名を刻まれ、決闘裁判(Trial by Combat)は「神が正義の側を勝たせる」という神意を前提としていました。つまり武術全体が神の審判の道具として位置づけられています。つまり武術はあくまで人間が創造するものであり、神はその勝敗を審判するのみなのです。特定の剣術家に「この技を使いなさい」と教えるような存在ではありません。唯一絶対の神は技法を伝える師ではない、だからこそ「神から直接技を授かった」という語りが構造的に生まれにくい。武術の権威は神伝ではなく、騎士道の誓いや実戦の実績によって担保されていました。
ギリシャ神話のアテナ、ローマ神話のマルス、北欧神話のオーディンなど、これらの神からの系譜を持つ武術が存在しない理由が、こうした宗教的な文化的背景から来ているのだとわかります。
中国——仙人という「人間の延長線上の存在」
中国武術の伝承に神に相当する存在が登場するとしても、せいぜい「仙人に教わった」という程度です。しかし仙人は神ではありません。道教的な世界観では、仙人とは長年の修行によって超人的な境地に達した人間の到達点であり、あくまでも人間の延長線上にある存在です。
そして中国武術の多くは、実在の人物による創始を伝承の中心に置いています。
- 太極拳——張三豊が創始したという説があるものの、張三豊自身は道士(道教の修行者)であり、仙人的な存在として語られることはあっても、神ではありません。
- 詠春拳——五枚師太(少林寺の尼僧)が創始し、嚴詠春に伝えたという伝承で、完全に人間の系譜です。
- 白鶴拳——方七娘という人物が鶴の動きを観察して創始したという、きわめて現実的な起源説です。鶴の動きを観察して技を作ったという、ほとんど自然科学的な起源説が伝わっています。
「人間と超越者の距離」という問い
三つの文化圏の違いを並べると、ある本質的な問いが浮かびあがります。「人間はどこまで神や超越的な存在に近づけるか」という問いです。
日本では神と人間の境界が曖昧で、修行によって神がかりの境地に至ることができます。中国では修行によって仙人、すなわち超人的な境地に達することができます。ヨーロッパでは人間は神にはなれず、神の意志に従う存在として位置づけられています。武術の権威がどのように語られてきたかは、その文化が「人間と超越者の距離」をどう設定しているかを、そのまま映し出しているとも言えます。
おわりに
武術の起源に、神や超越的な存在を結びつける語りは、どうやら日本に限った特別なことだったようです。ですが、神伝であれ、仙人伝授であれ、騎士道の誓いであれ、武術者が命を預けて稽古に臨むとき、何か自分を超えた力とつながっているという感覚は、洋の東西を問わず必要とされてきたのかもしれません。
それが本当に神との交信だったのか、極限状態のトランス体験だったのか、あるいは神経回路の突破として起きたゾーンの体験だったのか——今となって確かめる術はありません。しかしその体験が開祖の確信を深め、流派の核となる何かを生み出したことは確かです。
そして現在まで、弟子から弟子へと受け継がれてきたという事実は変わりません。
